はなこの雑記

アジアをフィールドに文化人類学を学ぶ大学生の雑記です。

メルボルンについて。


大学の交換プログラムでメルボルン大学シドニー大学の学生たちと交流していて、来月メルボルンに行くのでメルボルンについて軽く調べてみました。オーストラリア一般の話も含みます。
メルボルン大学に友人がいる教授曰く、「とにかくアジア人が多い、焼肉屋さんだらけ」だそうです。

近代的なシドニーと比べると歴史的な建物や文化が残るイメージだそうな。

メルボルンといえば、カフェ、コーヒーが有名ですよね。


*地理
オーストラリアの右下、タスマニア島の向かいにあります。
メルボルンビクトリア州の市の一つで、大陸最南端の州都です。
1日の間に四季があると言われるほど気温の変化が激しいです。冬(日本では夏)はオーストラリアの大都市の中で最も冷え込む都市であります。夏(日本では冬)にはフェーン現象により40度を超える猛暑になる日もあるようです。

*歴史
ポートフィリップ・ヤラ川と呼ばれる地域のあたりにはクリンと呼ばれる先住民族が住んでいたのですが、移民により持ち込まれた疫病・アルコールなどにより打撃を受け、1870年代までに滅びてしまったそうです。そのため、今日メルボルンに住むアボリジニはほとんどが外部から来た人々です。
1835年から西欧人により街が建設され始めました。Melbourneという名前は1837年に当時の英国首相にちなんで名付けられたようです。
1850年代にビクトリア州中央部で金が発見されたことによりゴールドラッシュが始まりました。1880年代には大英帝国内でも2番目に大きな都市となり、シドニーよりも栄えていたそうです。このため、ヴィクトリア女王時代の建築物が多く残っています。この時に中国から華僑が大量に移住。

1900年代初頭、オーストラリアは独立します。そして、1901年から白豪主義を始めます。
1947年には移民が第二次世界大戦後移民が流入しました。次第に、大量移民政策(アングロサクソン系ばかりを受け入れてたのから、東欧、南欧とかからもいっぱい来ることなった)へと移行します。白豪主義が終わりに向かう(1965ごろに人種差別撤廃法が制定される)と、多文化主義政策へ。多文化主義政策へは、70年代に完璧に舵を切りはじめ、80年代ごろに安定してきたと言えるでしょう。
1990年代にはクラウン・カジノ(アボリジニの儀式をイメージした炎のショーが有名)やメルボルン博物館、メルボルンエキジビション・コンヴェンションセンターなどの公共建築物が積極的に作られました。


*人口
約400万人。シドニーに次いで多いです。
74%がアングロサクソン系、19パーセントがその他のヨーロッパ系、アジア系は5パーセントだそうです。
特徴としてはギリシャ系が非常に多く、ギリシャキプロスを除いて世界で最も多くのギリシャ人が居住しているそうです。
先生が言うほどアジア人が多いと言うわけでもなさそうなのですが、地域にもよるようです。


*産業
テルストラ(携帯会社)、BHPビリトン、ナショナル・オーストラリア銀行(NAB)というオーストラリアの中でも有名な大企業の本拠地があるほか、多くの有名な企業があります。
オーストラリア第一の自動車工業地であり、機械工業や食品加工業が盛んです。軽工業に関しては輸入による縮小が著しいのだそうな。