シンジルト、奥野克己編『動物殺しの民族誌』(2016)昭和堂 感想文
『動物殺しの民族誌』を読んだので、感想文です。
この本は三部構成で、第一部:動物殺しの政治学、第二部:動物殺しの論理学、大三部:動物殺しの系譜学 となっている。
人々は動物を殺し、タンパク源としてその肉を摂食しながら暮らしている。
当然のことながら、その自然環境や信仰する宗教の違いによって、動物殺しのあり方は異なる。
この「事実」自体はとりたてて問題ではない。
「問題」となるのは、特定の動物殺しのあり方をめぐる価値評価が、人間同士の様々な軋轢を引き起こす時であろう。
では、こうした問題はどのような「政治」的状況のもとで生じているのか。
そしてそもそも特定の動物殺しの方法を規定している「論理」とはどのようなものなのか。
さらに、ある特定の動物殺しのあり方が、外部との相互作用の中で、どのような変貌を遂げてきたという「系譜」があるのか。
本書を貫くのはこの三つの問いである。
・本書でいう「動物殺し」とは。
家畜のみならず、野生動物を殺す行為についても扱う。食べるための狩猟・漁撈・屠畜はもとより、神に捧げるための供犠も射程に収めており、これらの行為全てを本書では「動物殺し」という用語で扱う。(p2)
・「動物殺し」を総合的に扱ったという意味で、本書は革新的なのだという。
文化人類学領域における供犠研究や生体人類学領域における狩猟研究では、膨大な研究結果が蓄積されてきているものの、供儀という枠組みで区切られる動物殺しはしばしば表象研究に、狩猟という枠組みで区切られる動物殺しは往々にして生業あるいは経済研究に回収されてしまう嫌いがある(pp3-4)
第一部で面白いと思ったのが、動物殺しと人殺しを同格に論じている点である。
動物殺しと人殺しの間には必然的な関連性はないと思われがちである。しかし、両者はしばしば密接に関係しあい、多くの場合は政治的な課題としてクローズアップされる。(p4)
具体的に人殺しについて論じているのは池田光穂先生の第2章「子殺しと棄老」、田川玄先生の第3章「殺しと男性性」である。
〜第2章〜
南米パラグアイの熱帯雨林に生きる狩猟民アチェ(グアヤキ・インディオ)社会について、フランスの民族学者ピエール・クラスとるが1960年代に著した民族誌を再読しながら、当時のアチェ社会について黙認されてきた人殺しの特徴を解析する。
池田光穂先生は、人々がある対象を殺す際に、その対象をそれまで所属していた範疇から排除し、自分たちとは異なる存在として他者化することで「殺す」ことが可能になるという点に着目している。
その上で、そうした実践が、屠畜の際に犠牲になる家畜に呪文を唱えたり、聖水や花びらをかけたりして性別する行為に似ていると分析する。
〜第3章〜
南部エチオピアのボラナという社会では、家畜の供犠、野生動物を仕留めること、嬰児の遺棄、敵対集団の人間を殺すことなど様々な形の「殺害行為」が行われているが、それらの目的は全て「男性性の獲得」である。
ここでは、植物殺しも含む動物殺しは人殺しと最初から密接に関連しあっており、一種の文化現象をなしている。
ボラナの男性は「殺し」を通してライフステージを移行し、男性性を獲得することを期待される。
ここでいう男性性とは「男であること」と「父親であること」を意味するが、前者は個人として狩猟と戦いで勇敢さを示すことによって、後者は年長者による嬰児遺棄と供犠を伴って獲得されている。
ボラナ社会では、人殺しと動物殺しを別個のものとして論じることがもはや困難である、と田川先生は示している。
人殺しは、他者を排除あるいは支配するための究極の行為であり、そこには権力が欠かせない要素として作動しているという意味で、政治的なものである。そのような人殺しと隣り合う動物殺しが人々の関心を呼び、問題視されているのも、政治的だからである。(p6)
よりミクロな社会文脈の中で考えていく第二部では、いずれの狩猟実践においても、実践者たちが人間と人間以外の諸存在を互いに交流不可能な完全異質のものとして捉えていない、という特徴がある。
例えば、マレーシア・サラワク州の熱帯雨林に住む狩猟民プナンの神話や口頭伝承の中では、動物たちは人間性を持ち、人間と同様の振る舞いをする存在として生き生きと描き出されている(p209)。一方で、プナンの人々は、あらゆる野生動物を戸惑うことなく即刻殺しの対象とする。狩られて持ち帰られた動物には、人間の死者に与えられるものと似た敬意が注がれるのだが。
プナンにおける、連続性と非連続性という野生動物に対する二つの相反する関係のあり方が、矛盾することなく収まっているという点が興味深い。
第三部ではグローバル化の中、固有の「殺し」のあり方がどのような変貌を遂げてきたかを示す。
山田仁史先生は、第7章で現代社会において動物殺しの現場が一般の人々から隠され、供犠そのものも批判にさらされる一方、供犠という名で呼ばれてきた諸実践は現代社会でも広く行われており、供犠という概念は今後も有効であると述べている。
ところで供犠=悪魔信仰と結びつけるイメージのあるキリスト教について、これは意外であった。
紀元後1〜3世紀の初期キリスト教は、動物供犠をきっぱり拒絶したのではなく、むしろ釘をどのように行うべきか、という議論が中心だったという。しかし、やがて時を経るうちに、イエス・キリストの死が供犠の完成形と見なされるように神学者たちの議論は展開を遂げた。(p270)
第8章で、近藤祉秋先生は、集団意識と経済活動のいずれにおいても「動物殺し」はアメリカ・アラスカ州の先住民ディチナニク人にとって重要であり続けると述べている。
第9章では、「慣習法に見る人畜関係」で、オイラト法典・チンギスハ-ンの大ジャサにおいて、人間と家畜をはじめとする動物との関係に関する条文が多く、家畜から家畜、野生動物から家畜、家畜から人間への行為も想定され、行為の性質が評価され、処罰措置が詳しく規定されているというのが興味深かった。(p331-334)
筆者が卒業論文の対象としているインド北東部の少数民族社会(農耕民族)でも慣習法から人畜関係を読み取ることができるのだが、彼らの場合は家畜を所有物・時に貨幣のような存在として見ている(ように読める)。
牧畜社会⇄農耕社会の違い・宗教の違いということなどがありそうだ。
動物殺しにまつわる人間社会の多種多様な論理のあり方を記述考察する本書を読むことで、読者は、自ら慣れ親しんできたものとは全く異なる世界を追体験し、そこに見られる多様な生命観・環境観の存在に気づき、自己と他者、死と生をめぐる思考を深めることができるであろう。p11